楽器

なんのひねりもなく、ただただ「楽器が弾ける人はうらやましい」という話をしてみよう。
私がいた幼稚園には文化祭のようなものがあって、組(クラス)ごとに合奏や劇を発表する。もはや何の曲だったか記憶にないが、私の担当は木琴だった。さすが園児向きの曲で、ほとんどずっと同じ音をたたいていればよく、途中数回だけ、別の音をたたくことになっていた。当然ながらいつ別の音をたたくかなど記憶できるはずもなく、気のむいた時に気のむいた音をたたいていた。
いきなり話は脱線するが、いったいどういういきさつだったのか、会全体の「はじめのことば」を担当した。男女一人ずつがマイクの前に立ち、「これからぼくたちわたしたちの発表会を始めます。最後までごゆっくりおたのしみください」と、開会宣言するのである。今でも両親から、「あの時みたいに元気よく素直に喋れ」と言われる。相棒の女の子――もう昔の話だから本名を言わせてもらおう、直子ちゃんは、目がくりくりとしてりりしく、利発な子だった。ちなみに彼女は、バイオリンを習っていた。
中学の文化祭では、クラスで「チェリー」を合奏した。バイオリンをはじめ、ギター、ドラム、サックス、ピアノと芸達者が多い中、私の担当はリコーダーであった。言わずもがな、何も弾けない「その他」組が受け持つパートである。
いや、こう見えて、ピアノを弾いていた時期もあるのである。
母は、あの世代の片田舎では珍しく、ピアノを習っていた。実に厳しい先生だったと聞いている。そのこともあったのか、少しは音楽めいたことをやっていた方が後々役に立つと思ったのか、子供の頃、母の手ほどきで多少練習していた。だからバイエルの名もブルグミュラーの名も知っている。
だが、そもそも母は人に物を教えられるような人ではない。音の「大小」ならともかく、まだ「高低」というものが分からなかった頃、「音が高いとか低いってどういうこと?」と母に聞いてみたら、ピアノを鳴らしながら、「ほら高いじゃない。ほら低いじゃない。どうして分からないの」と不機嫌そうに言った。分からないから聞いているのである。どうしてそれが分からないのか分からない。
いま、「ピアノ」と書いたが、そこは安普請のマンション暮らしの悲しさ、近所迷惑になるので、長らく「電子ピアノ」であった。学校でグランドピアノをならしてみたら、そのタッチの重さに驚いた。もともと指が硬くて、中指薬指小指が独立して動いてくれないくらいだから、きちんとしたピアノを弾くと音がすべってしまう。当然、楳図かずおの「グワシ!」もできない。
小規模なものなら伴奏をしたこともあったし、「エリーゼのために」や「トルコ行進曲」を弾いていたこともあったのだが、今となって考えてみると、あれは「それらしき音を鳴らしていた」というほうが正しい。音が抜けても平気、リズムやテンポもぐちゃぐちゃであった。高校の時、授業で1人ずつ弾かなくてはならず、ベートーベンのメヌエットを選んだが、見事に途中でとまって分からなくなった。喋りならアドリブでごまかせるが、楽譜があるとなるとどうしようもない。
中学生の頃、グループごとに音で「水」を表現するという授業があった。素直に「雨」とか「川」を連想する人が多く、スメタナの「モルダウ」を演奏しているグループなどあった。
だが、同じ土俵で戦ってはとてもかなわないと思った私は、あえて楽器を使わないという作戦を主張した。そしてテーマは、「涙」。詳しいことは忘れたが、けんかして失恋して涙を流すもそこから再生するというストーリーだったか。一列に椅子に座って、足音を鳴らしたり、風船を割ってみたり、口笛を吹いたりした。目新しさもあって、それなりにウケた。
他に誰も吹けなかったので、口笛は仕方なく私の担当だったが、見事にオンチだった。なるほど、楽器を持つ以前に、音感がないことにはどうしようもないのだと悟った。
いつだったか、誰かの歌を聞いているとき、知らずに勝手に指が動いていた。楽譜がなくても、耳で聴いただけで弾ける人がいる。この歳になって、突然才能が開花したのかと一瞬うきうきしたが、なんのことはない、歌詞を“タイピング”していただけだった。