だんしとわたし

先日古い友人の結婚式に出席して、久しぶりに会った高校の友人と話していたら、当時の私の印象というと「落語を聴いていた」ことだという。なるほど、どうして興味を持ったのかよく覚えていないが、同級生から志ん生の後生鰻など借りていた記憶がある。
映画も好きだったので毎回「キネマ旬報」を読んでおり、そこで弟子が連載していて、どうも談志という面白い人がいるらしいというのが談志を知ったきっかけだったと思う。だんだん落語というより談志が好きになった。
当時はYoutubeニコニコ動画もなく、本やCDやDVDやVHSを購入するお金もなく、自習室を使うために通っていた図書館でよく借りてきては読んだり聴いたりしていた。その結果、かどうかは知らないが、受験に落ちて浪人した。
初めて生でみたのは浪人中、今は無き新宿厚生年金会館(2000人くらい入ったと思う)での「短命」と「らくだ」であった。人間は悲劇的な描写を聴いて笑うんだ、と、残酷さと多面性に気付いた。
後年、縁あって一度インタビューに同席する機会があり、偉そうに私も質問したり笑い転げる幸運があった。ツーショット写真やサインをねだるのは自重したが、握手はしてもらった。その時の録音はどこかにあるはずなのだが、担当された方の机に埋もれているのかいまだ受け取れていない。
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人の言うことにいちいちケチをつけるものではないが、「歯に衣着せぬ毒舌で知られ」「カリスマ的人気を誇った」「昭和の偉人」という表現は、言いえているようで全然違うと思う。
日ごろ常識とか規則とか怠慢に隠れて受け流している物事を、ジョークの形で(それも「ジョークはきついほどよい」)、あるいは落語の噺として発信し続けていたわけで、喩えると陳腐な例になるが、世の中の裸の王様を相手に、裸だ裸だと叫んでいたのである。高校から大学にかけて私に友達が少なかった一因は、こうした談志一流の表現にかぶれていたからであり、多少なりとも大人になれてまともになったのは、その表現の深層を多少なりとも消化できたからだろう。
形は違えどこうして談志に救われてきたファンたちは、彼が何を目指し苦しんでいたかを理解し、楽しみにし、談志もそんな猪口才な期待なんぞ飛び超えてやろうと変革してきた。独演会は他にない緊張感と暖かさと一体感で包まれていた。…などと書いたら、「犬好きに悪い人はいない」みたいなナルシズムになってしまうかしら。
いずれにせよ師匠小さんをはじめ昭和の芸の系譜にあるものの、その真骨頂は平成以降、特に病と闘う過程で築かれたものだろう。
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語り継がれる名演は数多いが、2007年末の「芝濱」を生で聴けたのは幸運であった。
2010年4月の「首提灯」も聴いている。(「引退を示唆」と報じられている記者会見の時ですね)。
最後は2010年末の「芝濱」。2階最後列の端で聴いた。報道によると癌の再発が分かった後であり、また結果的にほとんど最後の大ネタであったようだから感慨深い。
友人はご存じのとおり私は下戸であるが、なぜかうちにある日本酒など、今宵はひっかけて寝てみようか。そうしたらひょっとすると、今日が夢になるかもしれない。