幼稚園の頃、チャボの絵を描いた。
念のため字引きで確認すると、チャボは矮鶏と書き、「鶏の小形品種の総称。尾羽が直立し、脚は短い。愛玩用。(以下略)」だという(大辞泉)。
記憶は随分あいまいだが、たしか部屋の真ん中に茶色いチャボがいて、そのまわりを園児達がとりかこみ、みな思い思いに絵を描いた。私は、羽毛を表現するため、筆先でちょんちょんと押すように彩色した。子供たちは塗り絵のように均一に色を塗りがちだから、筆のタッチを残す表現は大人好みだったのだろう、それなりの評価を得た。せいぜい近所のデパートの壁に飾られた程度だろうが、どこかに出品されたはずだ。
実は私が描いた絵の中で、この作品の出来が一番よいような気がしている。無論記憶の中の話だから随分美化されており、第一園児の絵がそんなによいはずがないことは分かっているのだが、絵の技術が子供時代からまったく進歩しなかったことは確かである。
  ※
小学校時代の図工は、K先生の受け持ちだった。創造性を重んじた方で、とにかく子供たちの自由な発想を大事にしてくださった。自由を謳歌した私は、好き勝手に想像と創造を楽しんだ。あれは卒業間際、最後の工作について、「とてもいい作品です。今までのものは、先生にはちょっと理解できないものも多かったので…」という旨のコメントをいただいた。それまでいったいどんな珍品を作っていたのか、残念ながら作品のほうの記憶はほとんどない。
そんなわけで、絵のほうはまったく上達しなかった。基本的なテクニックを吸収しなかったので、まずデッサンがいけない。車を描けばぜったいに走らない代物になるし、町並みを描けば4次元にゆがむ。後から考えれば、筒井康隆氏の小説世界を再現するような絵だったかもしれない。遠くの物は1つの消失点に収束するという遠近法は、ずいぶん後になってから知った。あれは何年生の時だったか、「未来のガソリンスタンド」を描く課題があったが、真正面から描く構図だったので遠近感もヘチマもなかったし、登場する人間は、エジプトの壁画のように無理矢理2次元であった。
  ※
デッサンができないから、当然ながら構図の取り方も悲劇的にまずい。
中学の時、写生会があったが、何が「絵になる」のかわかっていないものだから、書き始めた時点で人より随分劣っている。中央にでかでかと池があって、池の手前に小さな小さな木がはえていて、他にめだった被写体はないという構図では、描く前から出来は知れている。
「構図が悪い」ことに気づけるくらいに成長した私は、構図の必要ない絵を描くことにした。あれは中学2年か3年生の夏休みの宿題だ。図鑑や絵を見ながら、模写して色鉛筆で着色くらいのことはできるから、別紙にセミやトンボ、青森ねぶた祭りの「ねぶた」などを描いて切り抜いた。せいぜい10センチ四方程度の大きさだ。画用紙のほうは水で湿らせ、黄色で着色して、にじんだ背景を作る。そこに先ほどのセミたちを配置して、貼り付けた。そして絵の解説として、「夏の想い出」といった類の駄文を裏に付録し、お茶をにごした。
  ※
ゴッホやモネといった、いわゆる西洋絵画を観に連れて行かれても、たしかに素晴らしいとは思うけれど、正直なところ豚に真珠で、どこがすごいのか、ピンとこないことが多い。感想といったら、何千歩も手前な、「この絵は余白がなくびっちり描かれてるなぁ」…といった程度なのだから泣けてくる。
そう、あれはいつだったか、「特に風景画では、紙の中に描かれていない箇所があってはいけないのだ。余白があってはいけないのだ。」という当たり前のことに気づいたときは、愕然とした。そんなの自分には無理だ。
余白をうめられないのは今も同じで、手帳の中のスケジュールがいっぱいになることはほとんどない。無論人付き合いが少ないから当然なのだが、性分として、何事もきつきつに埋まっているのが苦手である。気どった言い方をするなら、もし万が一想定外の楽しいことが起きても、それを受け取るだけの余裕をもっていたい、ということになる。
  ※
高校に入ってから、まともに絵を描いたことがない。いま四つ切の真っ白な画用紙を渡されたなら、途方にくれるに違いない。
空想だけに頼っていた頃から、ろくに積み上げてこなかったものだから、何をどう描いたらいいのか分からないのだ。視線は歪んでいるし、構図は取れない。月並みだがそれは、そのまま自分の「未来像」の比喩としても有効である。
明確な目標に向かって何ヵ年計画でつきすすんでいる人がいるが、私にそれは無理である。「好きなようにしなさい」と言われても、何の見取り図も描けない。あっちへふらふらこっちへふらふら、その場その場の風任せで絵筆をすすめ、「魔がさして」高校に進み、「幸運にも」大学に進み、「いつの間にか」内定先が決まり、「気づいたら」自分の本が出ていた。そしてこれからも、「何か起こるかもしれない」という「余白」に根拠のない期待を寄せている。
たとえばそこに、マス目があったなら。目の前に出されたのが白い画用紙ではなく、白紙の原稿用紙だったなら。出来不出来にこだわらなくてよければ、何かしら形にすることくらいは出来そうである。右上からひとつひとつ文字をうめていけばいいだけだ。
思えば、随分小さな枠にはまってしまったものである。