梅は咲いたか

100円均一で、土鍋を3つ買ってきた奴がいたという。
「きいてくれよ、土鍋が100円だよ」「うん、100円はすごいよね」「俺3つも買っちゃったよ」「3つは要らないだろう」「…だって、100円だよ?」。
好きなエピソードである。人間がもつあやふやな部分をよくあらわしているように思う。理性や論理でははかれない、「なんか納得しちゃうなぁ」とか、「好きな言い方だなぁ」といった部分が頭の中にはあって、時にはそうしたナンセンスな部分の方に魅かれたりする。
これがまさに落語の本質なのではないか。愛宕山から飛び降りても無傷だし、自分の頭の池に身投げして死んでしまう。演者は言葉だけでその世界を組み立てるし、いや、言葉だけだからこそできるアクロバティックな構築をし、また聴き手も、想像力を発揮して、本能のような部分を大事にして、その世界を楽しむのだろう。
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知人の計らいにより、学園祭で落研主催の寄席にゲスト出演させてもらう話は前にも書いた。前日準備から参加したが、学園祭やサークルの共同作業とは無縁だったから、イベントを作り上げる過程そのものが新鮮だった。
机を寄せて、その上にダンボール、さらに上に布や毛氈を敷いて舞台を作る。「めくり」を書いたり、ビラを貼ったり、受付を作らなければならない。
落語にしても、「だいたい何とかなるだろう」と思っていたが、「だいたい」じゃ文字通り「話にならない」。いざきちんとやってみるととまどうことばかりで、セリフをどうする、間合いをどうする、話のテンポは、そもそも着物の着方は、登場の仕方は、お辞儀や所作はどうしようだとか、つめるべき部分が山ほどある。
考えてみれば当たり前なのだが、いざやってみて初めて気づくものだ。「とにかく何かやってみろ」と散々言われて(そして聞き流して)きたが、なるほど、やはり一理ある。
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「出囃子*1は何にしますか」と聞かれたので、陽気なのにしようと思って「梅は咲いたか」を選んだ。先々代の柳好で有名で、最近では「ガッテン」の立川志の輔が使っている。
ある程度自分を忘れて噺に感情移入をしないと、登場人物が生きない。だからといって、話すだけで精一杯になり冷めた目線を失うと、間合いの取り方だとか、メリハリがうまくつかない。演目の特徴と生来の早口があいまって、えらい速さで最後まで駆け抜けたが、いやはや、思った以上に難しいものだ。ライブは生き物、動揺することもあるし、2,3セリフを飛ばすこともある。
とはいえ、さすが朝からおいで下さるだけあり、お客さんは概ね暖かく、それなりに笑ってくれる。
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普段からは考えられないような人手でごった返しているキャンパスを歩きながら、前日準備からずっとつきまとっていた違和感について考えていた。
いったいここでは何が行われているのだろう。それほどでもない、もしくはろくでもない代物が法外な値段で売られ、どちらかというと自己満足な要素の強いパフォーマンスが繰り広げられ、時に歓声が上がる。しかもなぜか私も参加し、意外にもそれなりに楽しく、また自分も「ろくでもない」方の一員になってしまった。
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場所は一昨年まで通っていた方の校舎で、新しく建物が建ったり、改修されたりで、随分印象が違う。それでも、大部分はそのままだから、唐突に数多の過去がフラッシュバックし、記憶の中の登場人物が顔を出す。人生ゲームでもり上がった7号館、彼を怒らせた1食、彼女を怒らせた1号館、ひとかかえもあるプーさんを囲んだ2食、昼飯を食っていた5号館裏、なぜか座ったグラウンド脇ベンチ、夜暗くなってからの1号館廊下。
そしてそこには、変わらず同じようなことを考えていた自分がいる。つまりは何かすることの意味を、あえてしないでいることの勇気を、また、言い訳を。
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今年は暖かい日が続いたからか、銀杏並木の紅葉はまだまだであった。この雨が上がれば冷えこむそうだから、もう少しだろうか。そして金色の葉が落ちて、やがて「梅は咲いたか 桜はまだか」という頃には、卒業式を待つだけの気楽な身のはずである。
出番が終わり、すこし仕事を手伝うと用はなく、昼過ぎには早々においとました。帰りがけ、正門付近では、あれは何の団体なのだろうか、2人組の和太鼓が朗朗と鳴り響いている。
もしかしたら2度と来ないかもしれない校舎を背に駅へと向かいながら、さながら打ち出し太鼓を聞いているかのような気分になった。

*1:高座へ上がるときに演奏される三味線の囃子