安全と嘘

安全とは、つまるところ確率論でしかないのだと思う。
すなわち、前提と論理的な演繹で定義される事象の発生確率が、よくある例でいえば自分の頭の上に隕石が落ちてくる可能性よりも低ければ、まぁ安全だろうと判断してよい、となる。
言いかえれば、新しい事実や検討漏れが判明する度にその定義が容易に覆るわけで、何か問題が起これば字義通り「想定外」であり、そのあたりを「いままで嘘をついていた」と断定してしまうのはちょっと後だしじゃんけん風ではないかという気がする。
要は常に複数の視点から再検討され対処され続けるべきもので、反省されるべき主眼もそのへんに置かれるべきではないのか。賛成派だったか反対派だったか(あるいは今後どちらの立場に立つのか)という二元論は本質的ではなく、(だって思考回路の前提がたりなかったのだから)、事が起きた後となっては「なんで気づかなかったんだ」「あの時指摘されていたじゃないか」との声に関係者はこうべをたれる他ないのだろうが、実際問題事前に見えない可能性に投資する判断はなかなか難しいのだろうと一般論としては思う。
危惧するのは、「絶対安全なんですか」「絶対安全です」や、「絶対安全だって言ってたのに問題が起きたということはずっとウソだったということですね」や、「あいつらクソであいつらが全部悪い」というものの言い方が、思考ストップを招かないか、ということだ。
「絶対安全」の呪縛が、想定外の事態への対処や訓練を制限しなかったか。「絶対安全」であるため、「絶対安全」かどうかが判断されるまでは対外発表を避けるマインドが、隠蔽体質として助長されなかったか。
当事者もわれわれも、考え方を変えなければならないのは、リスクは共有されるべきで、リスクはわれわれ自分たちで負わなければならないという転換だろう。
基準を超えたらその基準の意味や影響の検討もそこそこにたちどころにとりあえず広範囲で出荷停止にしちゃうのも、ひとたび避難区域を設定するとなかなか帰っていいよといえないのも、「絶対安全」を政府が保証しなければならないという呪縛によるものに見えてくる。
今回分かったのは、「お墨付き」がいい迷惑だということではないか。必要なのは判断基準と根拠となるような正確な情報である。1年間毎日摂取しなければ問題ない程度なら、よく洗ってほうれん草を食べるし深呼吸もする、かどうかは個人の判断にゆだねればよい。
という言説が、ある程度安全な場所に居るという高みの見物から生じていることも、直接の被害者にしてみればそんな悠長なことを言っていられないことも、怒りが人を支えることがあることも、とりあえず怒っとくことが世の中を動かす場合があることも、影響がでかすぎるだけにコスト度外視であらゆる手立てを打たなければならない種類の事案だったことも、何か起きた後の影響が予防にかかるそれよりもはるかに大きいことも、一応は認識しているつもりでいる。