多事暴論3 ありや、なしや

たとえば、大衆という言葉を使う人を信用しない。
銀行員が一律同じ髪型をしていた頃ならいざ知らず、いや、恐らくそんな当時でさえ、一様で均一な集団などあったものか。今日日そんなざっくりした議論をされても困る。あるならそれは「公約数」で、たとえばTVが狙うのは最大「公約数」であろう。
庶民という言葉も苦手である。
分かりにくいたとえかもしれないが、所得を隠して脱税しているような後ろめたさを内包している気がしてならない。物が読めて、ブランド物のバッグのひとつやふたつをもっていて、喰うに困らず、高校や大学を出ている人も少なくなく、参政権も学ぶ機会もあるのに活用せず、そのくせ店員にいっぱしの口をきいて偉そうに、権威をこき下ろして楽しそうに、弱者ぶってそれのどこが庶民か、いや、それこそが庶民なのか。
嫌いというほどではないができれば避けたいのが「悩む」、である。
「迷う」は分かる。情報不足やビビってしまって「決断できない」とか「行動できない」のもわかる。いっくら考えたって分からなくてどうにもならないのも分かる。でも悩んでどうするのか。そもそも悩むっていうのは何なのか。モンモンとすることか。気に病むことか。いや、そうは言ったが、分かりやすい例でいえば恋煩いとか将来を考えるとか仕事でしくじるとか(←今日の私)、どうしたって思い悩んでしまう時間があるのは分かっているのだけれど。
誰かも言っていた気がするが、「どんな人が好き?」に「優しい人」と言う人、あれは一体どういう了見なのか。
好意のある人には(大抵)優しくするもんだろう。そんなこと聞かされても何の情報にもならんのである。たとえば「親切」だとか「紳士」だとか「ほめてくれる」だとか、そんな類の表現ならいくばくかの客観性を含んでいて、でも「優しい」は主観であり、具合の悪いことに人それぞれの受け取り方も全然違ってしまい、たとえば「突き放すのも優しさ」とか、いやいやいや、そんな複雑なことを言われてももうどうすればいいのかワケワカンナイ。そういうわけで、いわゆる「好きな子ほどいじめてしまうような」幼稚な人間性から何の進歩もないワタクシなのである。