多事暴論 日本語が亡びるとき

日記めいた内容は完全にmixiの方に移行したし、いつの頃からか本や映画の備忘録ばかりになり、ブログ名の「おきらく」も「放談」もどこかへ行ってしまっているが、たまにはちょっと、論理性も根拠もうっちゃって、思いつくままに書きなぐってみようと思う。
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「正しい日本語」とか「日本語が亡びる」だとか、その手の類の議論には与しないことにしている。
そりゃ、ホワイトボードへの板書時、社会人にもなって「著作件」とか「個客」とか書いちゃうのは“たしなみ”としてどうよ、と思うし、何かっていうと「すげー」とか「マジで」とか「神」とか、表現の幅ではなく程度の幅で物事を言い表しちゃうのも残念な感じだが、それは語学力というより(無関係ではないにしても)思考回路の次元の話だろう。
ひところ流行った「恋空」に代表されるようなケータイ小説も、読んだ限りでは展開も表現も浅はかだったが、従来の小説とは明らかに別の読者層な気がするので、これをもって小説が変わるとか日本語がどうだとか、そんな大層な破壊力は持ち合わせていないように思う。
が。
先日ネットサーフィンをしていたときのことである。
「教えて、goo!」だか「Yahoo!知恵袋」だかで、「やけぼっくいに火がついた、ですか?やけぼっくりに火がついた、が正しいのですか?」という旨の質問が挙がっていた。それ自体は「まあ間違いやすいよね」でいいのだが、親切な人が辞書で調べて説明してあげていた、その内容に対する質問者の回答コメントに驚いた。
「わー。辞書ひいてまで調べてくれたんですね。ありがとうございます!」
ちょっとどこからツッコめばいいか分からなかった。
この人は、辞書でページを開くよりも、質問ページに投稿しちゃう方が楽だ、というのだろうか。紙の辞書を持ち合わせていたなかったとしても、Yahoo辞書でひけばいいじゃないか。
20代のハシクレが言うのもなんだが、ここまでくると思考回路から価値観から行動パターンまで、ちょっと馴染みがない。
ツイッターの例をだすまでもなく、「文章」というほど有機的ではない短い言い回しは、インターネットが登場して生まれた特有なもののように思う。かくいう自分も原稿用紙に書くときとブログを書く時では明らかに書き方を変えている。
肯定も否定もしない。ただ、不思議な感じネっていう話。