結末

のだめのドラマが、スペシャル版で帰ってくるという。
昨年、妹と連続ドラマを観ていて、続編はあるだろうかという話になったとき、私は、「パリ編は前半と違って見せ場が続くわけじゃないし、ロケ代もかかるから連続ドラマにするのは難しいんじゃないか。でも、キャストははまってるし、ドラマの出来もいいし、話題性もあるから、2夜連続スペシャルをやるんじゃないか」と言った。
経緯はともかく、見事予想通りだったわけだが、証人が妹だけなのが残念である。
…思えば、予想が当たってしたり顔をするのも、もしかしたら占いや経済予測が幅を利かせているのも、月並みだが「いかに先のことは分からないか」の裏返しなのかもしれない。

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さいころから、夢のない子だった。先のことなど分かるまい、とろくに考えてこなかった。
幼稚園の頃、どうしても将来の夢を書かなければならなくなって、何を思ったのか「でんしゃのうんてんしゅ」と答えた。
塾帰りに菓子パンを買い食いするのが楽しみだった頃は、パン屋さんになりたかった。
多少なりとも実感を持ってまともに憧れたのは、物書きくらいだろうか。中高生の頃、いくつか小説めいたものを書いた。当時の好みで、SFが多かった。温暖化が進みすぎて、仕方ないから地球全土をクーラーで冷やすことにする、とか、夏目漱石の『夢十夜』にならって、ヘンテコな夢話を10個書くとか、そんな内容だった。
自分では気に入っていたし、今から考えても、曲がりなりにも帰結のある話を書いたのは、中高生にしては大したものだったと思うが、やがて、才能の無さをはっきりと悟った。
ことなかれ主義だから事件を起こしたがらない。だから登場人物は殺せない。発想は貧困。何より人生経験の不足。思いつくアイディアはオープニングとラストばかりで、展開が描けなかった。
今ならはっきりと分かる。要は、フィクションというものをよく分かっていなかったのだ。早い話、生きていくということがよく分からなかったといってもいい。

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たとえば、サツキとメイも、やがてはトトロを忘れて大人になっていく。たとえば、華やかにハッピーエンドを迎えた2人も、やがては結婚し、結婚すれば倦怠期を迎えるかもしれない。一説には、アメリカでは2組に1組が離婚するという。ゴジラウルトラマンが去っても一件落着ではなく、踏み荒らされた街は、お金をかけて復興しなければならない。
フィクションは、あくまでも一部分を切り取って提示するのであって、登場人物には今までの人生があり、これからの人生がある。そのことをどこかで感じさせている作品には、どこか奥深さがあって、共感を呼ぶように思う。結末は終わりではなくて、「あぁ、この人ならこの後もやっていけそうだ」と思わせるものなのだろう。

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実生活はもっとシビアである。
たとえ何かひとつエピソードが終わっても、実際は、むごたらしかろうが、しんどかろうが、みっともなかろうが、生きていかなければならない。どうしても今日の次には明日が来てしまい、リセットできずに連続していく。
頂点を極めた次には、必ず下り坂が来る。夢は叶えば日常になる。達成感の後には虚無感が来る。
本を出版した時や卒論を書き上げた時、突然表れた荒野のような空き時間に呆然とした。達成感はあっても、晴れ晴れしさはない。もっとできたのではないのかという想いと、終わってみればどうしてこんなことに執心していたのだろうという気持ちが同居していた。
たとえば、とてもとても辛いことがあったとき、あるいは、取り返しのつかない場所まで来てしまった時、身投げしたいとか、腹を切りたいとか、潔く辞めたいだとか、それはそれでとても覚悟がいることなのだろうけれど、どこかで楽をしたいだけなのだ、終わらせたいだけなのだ、ということを、実感できるくらいには年を重ねた。

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就活のとき、「あえて答えにくい質問をしてみるけれど、10年後どうしたいですか」と聞かれたので、
「これをしたい、と明確に目標を決めるのが、どうも苦手である。たとえば1年前、こんな状況になってるなんて思いも寄らなかった。今の自分が想像できるような未来などつまらない。その時その時に選択していくことで、結果的に10年後、面白いことになっていると思う」というようなことを言ってお茶をにごした。その場しのぎの発言のようだが、本心でもある。先のことなど分かってたまるか。
……それでも、と最近は思うのである。
社会人というものになって、どうやら「いつか、まぁ、そのうち」と言っているうちに、時はあっという間に過ぎていくものらしい。なのに私はといえば、大した意志もなくふらふらしていて、守るものもなく、信じるものもなく、馬齢を重ねている。
2007年の終わり、いいかげん、そろそろ覚悟を決めていかないとなのかなぁ、と思っている。

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みなさま、よいお年をお迎えください。