11月が終わる、その意味

…と書いたが、ハナっから“意味”なんざ存在しないのである。すべて後付け、霜月と呼ぼうが餅月と呼ぼうが、もしくは何日だろうが、好きに決めればいい。大体生きてる意味なんてあるものか。私がいようがいまいが大した影響はない。落ち着いて考えれば、原理的に、殆ど全ての人にとって私がどこで何をしていようが関係ないし、逆に自分にとって殆ど全てのことは「どうでもいい」し「どうもできない」。するとすれば、物事に意味を見出していくことくらいである。
意味を見出すといっても、何が好きだとか、何をしたいだとか、何が不満だとか、せいぜいその程度、言うなれば生への未練である。死んだことはないから分からないが、どうせいくつになっても、美味しいものを食べたいとか女にもてたいだとか子供が言うこと聞かないだとか財産はやりたくないだとか足が痛いとか死にたくないだとか、愚痴愚痴言い続けて未練たらたら死んでいくのだろう。コマは回り続けることで倒れないように、マグロは生きる限り泳ぎ続けるように、人間は、あーでもないこーでもないと言い続けることで生きていることを確認しているのであって、それでどうにか安定しているのではないか。すなわちこのブログそのままである。
ついでに言えば、人間が口ィ出していうことは大体が、自慢話、愚痴、御託、言い訳といった自己弁護であり、論理なんてその最たる手段。所詮その程度、ただの自己満足である…ならば、これもまた未練なのだろう。
さて、思い出してみれば、11月の目標なんてのをたてた気がする。再掲。

  • チョコレート食べ過ぎない。コーヒー飲み過ぎない。→むしろ悪化。
  • 早起きとは言わないからとりあえず早寝。→むしろ悪化。
  • 本読む。勉強する。→勉強はしてないが本は読んだ。
  • センスと思いつきに頼らず、論理的に&深く考える。→少しはましになったかと思ったがやっぱり全然ダメ。
  • 人並みにコミュニケーションとる。→全然ダメ。
  • 野にでる。→ある意味では達成したが、多くの面で大幅に後退。活動(できる)範囲がますます狭まる。少なくとも心情的に。

…つまり、達成したのは本を読んだことくらい。今10冊目だから、匍匐(ほふく)前進みたいな生活だった今月にしては、まぁがんばったか。が、おおむね大幅に悪化している。どうしようもないな。
「努力が足りない」というのは簡単だが、果たしてそうなのか。がんばるほど、めざすほど、もとめるほど、それと離れていく矛盾、とまどい、徒労感。ならば、目標なんてないほうがまだましじゃないか。人生成り行き、出たとこ勝負。
大学に入って学んだこと、といえば、「見る」ことの難しさ、大切さぐらいだし、それが一貫したテーマであると言える。目指したものに近づかないのは、すなわち「見えていない」からではないか。こんな基本の動作も、実はとても難しい。状況がどうなっているのか、どれが本質で、どれが因果関係なのか。いや、そんな高尚なことでなくてもいい、眼前に広がる事実、現実、情報をくまなく受け取れるかどうか。縦横に広がる網目の中の一点として、とらえられるか。できない。付け加えれば、その作業を個々人がやっているわけで、人によって違ってくるのは当然、当然なんだろうけど、その乖離、齟齬をどううめればいいのだ。たとえば「明らかにお前が間違っている!バカ!」と、どう伝えればいい、それ以前に伝える権利などあるのか。第一伝えてどうなる。勝手にやらしておけばいいじゃないか。そもそも、どっちが正しいも間違ってるもないのか。いや、でも、えー?! う〜ん。
聞く、読む、話すにいたっては、もうお手上げ。とても「立つ」までたどりつかない。
問いばかりがとっちらかって、どうにもならない。やはり俺に論理はない。大きなこと言う器じゃない。頭も働かない。他人の体で生活しているみたいだ。
2005年の大団円は、相変わらず気の向くままに、できればおきらくに。