かけこみ2008年 Part2

夜は短し歩けよ乙女

夜は短し歩けよ乙女

夜は短し歩けよ乙女森見登美彦
独特の文体と評されるが、新しいわけではなくむしろ古い、たとえば井原西鶴のような印象を受ける。西鶴ろくに読んだことないけど。
京都・同和「裏」行政──現役市会議員が見た「虚構」と「真実」 (講談社+α新書)

京都・同和「裏」行政──現役市会議員が見た「虚構」と「真実」 (講談社+α新書)

先日京都行ったので。
レバレッジ・リーディング

レバレッジ・リーディング

レバレッジリーディング 本田直之
書いてある内容自体はもっともだと思うんだけれど、内容が薄いような。「本の中で大事なとこなんてちょっとなんだからさっさといっぱい読むべし」って書いてあるんだが、その通り実践しなくてもよい!勝間和代
たまにはベストセラー作家の作品もね。
アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない (Bunshun Paperbacks)

アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない (Bunshun Paperbacks)

アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない。
アメリカが外国に戦争をしかけるのは地理の勉強をするためだ」というジョークがあるんだそうな。パスポートを持っているアメリカ人は20%にすぎず、アメリカ以外の国に対して極端に無関心。キリスト教信者のうち極端(と思わずにいられない)主張が、人々の生活や政治と不可分な状態にある現実。面白いというか空恐ろしいというか。
ニュースソースや統計数字の根拠が明確でないこともあり、どの範囲の話なのか、どの程度信じていいのか、私もよその国に対して極端に無知なので心もとない。
すごい会議?短期間で会社が劇的に変わる!

すごい会議?短期間で会社が劇的に変わる!

すごい会議

コーチをしていてよく見えるのは、ほうっておくと会議の時間の九五%は「コメントの交換」に使われている、ということだ。
これを「明確化のための質問」「代替案の提示」「リクエスト」の三つだけに絞ると面白いほど会議が前進する。

リッツ・カールトンが大切にする サービスを超える瞬間

リッツ・カールトンが大切にする サービスを超える瞬間

有名ホテル、リッツカールトンの話。
マニュアルだけでは限界があって、信条(クレド)をもとに自分で考えて、権限・金額にも裁量がないと納得のゆくもてなしはできないのだろう。最高のおもてなしを、いつか受けてみたいと思う一方で、僕は人に気を遣われるとかえって気を遣ってしまうので、窮屈かもしれないとも予想される。

最近、他の業界の方とお話していると、どの業界も「ホスピタリティ」を強く意識していることに気づかされます。ある自動車メーカーの方は、「私たちは車ではなく、車を運転するときのわくわく感や快適さを売っている」とおっしゃっていました。

どの分野でもいい。本当に成功したいのであれば、目指す収入の五パーセントは自分に投資するくらいでなくてはだめだ。それと、もっともっとセンスを磨くことだ。

リッツ・カールトンではブランドを“約束”と定義しています。

千円札は拾うな。

千円札は拾うな。

千円札は拾うな。

優秀な人に「自由な時間」を与えるほど効率のいい戦略はない

どんな投資でも、一手先の戦略よりも、三手先で回収する戦略の方が、勝率が上がって、リターンも大きくなる。(中略)実際、私は三十六カ月で予算を組んでいる。十二か月ごとにぶつ切りにしている予算を三年分まとめて使うのだ。その結果、選択できる戦略の数は数十倍に増える。

人材が得るのは「物」ではない。(中略)社員が持っている付加価値のようなものこそが「企業の力の差」となって表れるのだと私は思っている。

今、中小企業が真っ先にしなければいけないのは「借金」である。(中略)何十倍、何百倍という投資効率を生み出す可能性があるのは、人材と情報、そしてブランドだけだからだ。

私も判断を下す際にはいろいろなことを検討し、大いに悩む。だが、決断では悩まない。(中略)それは「決断」にはいくら考えても正解がないからだ。

ひとりでは生きられないのも芸のうち

ひとりでは生きられないのも芸のうち

ひとりでは生きられないのも芸のうち。内田樹
たとえば「失われた家族の再生」「失われた共同体にかわるものを見つけなければ」「古き良き日本」みたいな発言を聞くたびに気分を害していて、誰が何と言おうと自分は昔には戻りたくない、好きにさせてくれ、と思っていた。ニュースでキャスターが憤慨しているのを見るたびに、どの立ち位置から発言しているのか、ただ怒ったって物事の解決にはならないだろう、と首をかしげていた。そんな違和感を解消してくれる、外連のない言説が心地よい。

私は以前、どうして日本ではイスラム原理主義者のテロが起こらないかについて考察したときに、日本でテロをしたら「テロリスト仲間から村八分にされる」からではないかという推理を行ったことがある。
だって、日本でテロをするなんて「赤子の手をひねる」ようなものだからだ。(中略)
日本がそのナショナル・セキュリティを維持できているのは、日本が「とってもラブリーな」国だからである。
例えばの話、テロリストだって、たまには息抜きしたい。
その時に家族旅行をするとして、どこに行くだろうか。
水と安全がただで、道ばたに置き忘れた荷物が交番に届けられていて、ご飯が美味しくて、温泉が出て、接客サービスが世界一で、どこでも「プライスレス」の笑顔がふるまわれるところがあるとしたら、「そういう場所」は戦士たちの心身の休息のためにもできれば温存しておいたほうがいい、と考えるのではないか。
それはテロリストたちが(自分たちの闘争資金を預けてある)スイスの銀行を襲わないのと同じ理由である。
日本人は「ラブリー」であることによってリスクをヘッジしている。(中略)
アメリカにもラブリー、中国にもラブリー、韓国にもラブリー、台湾にもラブリー、ロシアにもラブリー。
みんなにちょっとずつ愛されるそんな「CanCamな日本」であることが二十一世紀の国際社会を最小のコスト、最低のリスクで生き抜く戦略だということを無意識のうちに日本人たちは気づき始めているのではないであろうか。

日本の家族が崩壊したのは、(中略)家族を解体し、家族一人一人が孤立し、誰にも干渉されずに自己決定することの代償として、すべてのリスクを引き受け、すべてのベネフィットを独占する権利を手に入れるという生き方に日本人の多くが同意署名したからである。
家族がいない方が競争上有利であると人々が判断したから家族は解体したのである。逆に、家族がいる方が生き残るうえで有利であると判断すれば、みんな争って家族の絆を打ち固めるであろう。

不二家社員の頭にあったのは「同業他社との競合」と、そのラットレースでの相対的優位だけであった。
そのレースでの競争に夢中になっているうちに、レース場の外にも世界があり、レース場の外にはもう一つ次数の高いルール(たとえば食品衛生法)が存在するということ忘れてしまったのである。

私たちの労働意欲を担保するのは必ずしも「未来が保証されている」ことではない。「未来が未知だから」こそ働く意欲がわくという若者はいつの時代にもいる。

戦争についてのルールを作るのは、勝つためではない。負けた時にあまり不愉快な思いをしないで済むように、人間はルールを作るのである。
(中略)「強者」というのは「勝ち続けることができるもの」ではなくて「何度でも負けることができる余力を備えたもの」のことである。「弱者」というのは「一度も負けられない」という追い詰められた状況にある人間のことである。

自己決定、自己責任、自分探し、自分らしさの探求、オレなりのこだわりっつうの?……そういった空語に私たちの時代は取り憑かれている。
これは市場経済が構造的に追求する消費単位と消費欲望の最小化の自然的帰結である。消費単位の規模を「最小化」することをサプライヤーは要求する。