黒と白

小さい頃、親戚の知人くらいのツテで、プロ野球の始球式をさせてもらったことがある。場所は神宮球場、捕手は勿論、古田敦也その人である。
折りしもヤクルト全盛時代。その立役者である古田は、恐ろしい強肩で盗塁を阻止し、首位打者に輝き、オールスターではサイクルヒットを打っていた。
大して長くない人生のうちの全然長くない間、こんな私もプロ野球選手に憧れた時期がある。テレビで観る古田の活躍に心躍らせ、壁にむかってボールを力いっぱい投げていた。後年、おそらく眼鏡の印象にひっぱられてだろうが、1度だけ「古田に似ている」と言われたことがあって、随分気をよくしたものだった。
始球式の日、スワローズのユニホームを着て、選手とキャッチボールをさせてもらい、開始までベンチで待機していた。古田もやってきて、私の背番号を見て、「オレ、今の番号もらうのに何年もかかったんだけどナァ」みたいなことを、例のどこのなまりかよくわからない口調で話していた。
帽子のロゴが、「Ys」になる前、「ys」であったころの話である。

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スポーツを見て興奮した記憶をたどると、たとえば、伊達公子がグラフに勝った試合を思い出す。
長年にわたってテニス界の頂点に君臨し、当時も圧倒的な強さを誇っていた女王グラフに、負傷してテーピングぐるぐる巻きの伊達が挑む。当時の私はといえば、1本とるといきなり15がカウントされることにおののいていたようなテニス素人だったが、手に汗握ってテレビを見ていた。たしか大逆転劇で、最終ゲームは行く果てもなく続いた。会場は異様なまでの盛り上がりを見せ、勝利の瞬間、震えた。
今調べてみたら、1996年4月に東京・有明コロシアムで開かれたフェドカップで、スコアは7-6, 3-6, 12-10だったそうだ。
長嶋の天覧試合も、東洋の魔女も、アリとフォアマンの対戦も、歴史としてしか知らないが、歴史に残る名勝負を、たしかに私も見ている。

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話は途端に小さくなる。中学の頃、私は卓球部に属していた。当時はまだ純朴で、朝開門と同時に駆けていって着替え、練習を始めたほど入れ込んでいた。
サーブで3本、レシーブで2本とるのが基本で、それより上乗せすることでリードできる。追いかけていて、追いついた時は、実はまだ負けていて、そこであせって攻めに行くから結局離される。じっくり構えてとるべきポイントなのだ。…などなど、顧問の話に耳を傾け、夏は蒸し暑い体育館の中で汗を流していた。ルール改正前で、ゲームは21点先取、ボールは今より小さい38ミリ、愛ちゃんはまだ世界的に活躍していなかった。
3年の春の大会、すなわち部活を引退する大会の、シングルストーナメントで、第1シードのTくんとあたった。個人的に仲もよく、時折学校の垣根を越えて練習したこともあった。そして、彼は強かった。
元々出来の上下が激しい私だったが、その試合はかつてなく感覚がさえ、集中できていた。無心で、でも頭はフル回転して配球の組み立てを考え、練習でも経験ないような強打対強打を繰り広げ、打ち勝った。嬉しかった。思わず、ガッツポーズをした。
次の試合、下級生にあっけなく負けて、私の部活人生は終わった。
全国に数多ある市町村の1つで、毎年行われている大会の、何十とある試合のうちの1コマである。

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中学の部活を最後に、勝ち負けにしのぎを削る機会は無くなった。真剣勝負の緊張感は快感であるが、もうしんどくなってしまった。
世の中細かいルールに囲まれているようで、実は絶対のルールなんて大して無くて、殆どがさじ加減、見方を変えたり、早い話諦めればどうとでも生きられると気づいてしまってからは、負けないためには戦わないことだ、と、一見孫子のようなことを言っては、のらりくらりと張り合いのない生活をして居る。

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引退前に一目観たくて、古田を観にいった。
心なしか狭くなったように感じる神宮は、スコアボードには最早知らない選手ばかりが並び、優勝決定後だからか、カードによるのか、あるいは元々がこの調子なのか、3塁側には空席も目立つ。
我らが古田は8回裏、代打で登場したものの、内野ゴロで凡退した。それでも、1塁を必死で駆け抜けていった。
14年前のあの日、彼がたしかにミットにおさめ、私に優しく投げ返してくれた白球は、今も我が家に在る。