本を出す際お世話になった学生団体に頼まれて、インタビュー映像を撮ってもらったことがあった。次回のイベントで使うのが目的だった。
映画サークルにも在籍している友人は、嬉々としてビデオカメラを回し、私は妙なハイテンションで思いつくままに喋った。『デスノート』の出演者を真似たバージョンまで撮ったりして、よその大学の教室で、散々遊ばせてもらった。
撮るはいいが、自分が映っている映像を見るのは嫌なものである。
そこには、ことごとく「逆」をやる自分がいた。インタビューアー役の友人が話を始める一瞬前に、「ご趣味は何ですか」とこちらから尋ねてみたり、「この本を読んだら感動するんですね」とふられると、「本でも映画でも、感動作と銘打って感動したためしがないわけで」とまぜっかえしたり。くぐもった声でぼそぼそ喋り、甲高い声で肩を揺らして笑う。その間合い、姿勢、内容は、一言で言えば「斜にかまえた」者のそれであった。
結局、諸般の事情で、インタビュー映像は日の目を見ることなく、関係者にだけ披露されて終わった。

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差し出された手を払いのけるような真似は、何度反省しても治らない。たとえば、入社後健康診断で問診を受けた時の話だ。実は会社の研修先は、大学1,2年の時通っていたキャンパスの近くにあるのだが、保健師さんはそのことに触れ、「でしたらこの場所は懐かしいんじゃないですか」とおっしゃった。私は間髪いれず、「思い出したい思い出ばかりじゃありません」と答えていた。
おそらく、照れているのだと思う。素の自分を見せるのが苦手なのだ。要は、好きな子ほどいじめたくなる男児レベルから、一歩も抜け出していないのだろう。ときどき相手を褒めてみても、普段の行いが災いしてか、皮肉を言っているようにしか聞こえない。贈り物をもらっても、曖昧にニヤニヤするしか感情表出の術を知らない。
いや、時には「要らないものもらっちったなぁ…。キーホルダーのお土産ばっかりもらったって、そんなに鍵持っちゃいないよ」と、そもそも喜んでいないことがある。「自分の為に時間を作って選んでくれたのだ」ということを、頭で理解しているのに…である。昔、父の日に、唐辛子の栽培キッドをもらったことがあったが、特に当時は辛い物が苦手だったこともあって、1週間で枯らしてしまった。感情表出以前に、感情生成の時点で人の道から外れている節がある。
なるほど、渋谷センター街を歩くと居心地が悪いわけだ。ついでに言うと、肩書きだけを見ればいかにも王道を歩いてきているように思われるから、なおさら落ち着かない。

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そういえば、私がインタビューアーになったこともあった。お相手は、落語家立川談志師匠。ひょんなことから、雑誌の取材を手伝うことになったのだった。
「日本人はただ善悪で騒ぐだけになり、モノを考えなくなっちゃった。私は落語をやることによって、ユーモアを喋ることによって、そういった風潮に警鐘を乱打していたのかもしれない。世の出来事を笑い飛ばすことによってね」。
常識とか、慣習とか、多数派の意見とか、そういったものを疑って、いわば客観的な立場から鋭い洞察を加えるところに、談志落語の真髄があるのだと思う。早い話、見方を変えてみるのだ。そしてそれは、同時に優しさでもある。以前、談志師匠が星野哲郎氏と対談していた時、「最近手が震えるんだよ」という星野氏に対して、師匠はすぐさま「止まっちゃうよりはいい」と返していた。

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鋭さや的確さは師匠に遠く及ばないが、少なくとも、信じる前にまず疑ってみようという視点は、私も持ち続けていた。元来、どこか遠巻きに眺め、たとえば先生の建前的発言にも気づいてしまうような嫌な子供だったから、それは自然なことだった。
とはいえ、疑うのも当然時と場合によるべきだろう。日常会話の大概は、ただ同調していればいいものである。なのに私は、いちいち屁理屈をこねるものだから、人から煙たがられていた。とりあえず相槌を打てばいいものを、すぐに歯向かおうとする。上京してきた子が、「東京は水が悪くて肌が荒れる」とぼやくのに、「食生活や生活リズムだって変化しているのだから、水だけが原因とはいえないだろう」と答えて、ひんしゅくを買った。

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素直な感情表出ができず、根性も曲がってい、素直に同調できない。そんな「逆」がそもそもどうして生まれたのかといえば、それは健気な自己防衛だったのだ、という気もしている。
良くも悪くも目立ってしまっていた子供時代、空気を読んだり適切に謙遜することができなかった私は、ならばいっそのこと突き抜けて変になってやろうと、逆説的な解決策を模索していたのかもしれない。Jリーグが開幕して空前のサッカーブームだったあの頃、私は校庭の隅っこで縄跳びをしていた。誰もがテレビゲームに興じていたあの頃、けん玉に凝ってみた。流行を追いかける嗅覚がなかったから、仕方なく時代を逆行して昔話に詳しくなった。時代をときめくアイドル達を素直に好きと言えなかったから、誰も知らないであろう往年の女優を口に出して煙にまいていた。そう、次々と問題をすり替え、話を変え、見えない壁を作っていたのだろう。高い位置から自分を見て、あっちが逆方向だと指図する自分がいたのだ。

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たぶんお酒の効用のひとつは、すべてを忘れて、前後左右不覚になっていい気持ちになることなのだろう。
が、ご存知の通り私は筋金入りの下戸である。素面にとって、どうしたって飲ん兵衛たちを遠くに感じてしまうあの疎外感は、筆舌に尽くしがたい。しかも、たとえ宴の最中でも、高いところから視線を感じるのだ。高いところから声が聞こえてくるのだ。「その物言いはうまくない」「それじゃ普通だ」「どうせ社交辞令だぞ」「覆してやれ」「ひっくり返してやれ」「逆をやれ」「逆をいけ」…。

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落ち着いて考えてみれば、「逆」というのは、「正」とか「表」とか「順」があってはじめて生まれるものである。論理的に考えるとそうなる。
なるほど、時々生活をとても窮屈に感じるのは、思わず「逆」をやってしまうからではないのだろう。いつも独自性を出そうとし、わが道を行っているようであって、実はただ単に、判断基準を他者に依存しているからなのかもしれない。