手紙

手紙には愛あふれたりその愛は消印の日のそのときの愛(俵万智

先日ちょっと気になることがあって、昔の書簡をあさっていたら懐かしくなって、ついあれこれ読み返してしまった。
私は大学に入るまで携帯電話を持っていず、主な連絡手段は手紙だった。ある時期まではかなりの手紙やハガキがあり、文通をしていた相手さえいた。根が筆マメなせいか、きちんと下書きをして、便箋や記念切手も数種類用意していた。とはいえ電子化の流れには逆らえず、だんだん年賀状くらいしか書かなくなり、今では年賀状さえおざなりになってしまった。
そういえば以前、ある団体から、「手紙の魅力」について講演して欲しいという依頼を頂いた。いわく「日本語の美しさ、季語や礼儀などについて…」ということだったので、ちょっと気が進まずお断り申し上げた。手紙の魅力は感じているのだけれども。
手紙とは不思議なもので、自分が書いたものは手元に無くて、相手のものだけが残っている。一体自分がその時何をしており、何を書いたのか、言わば鏡のように相手の文面から想像するしかない。そんなとき、「愛」といってしまっていいものか、とにかく深い想いを感じる。大体が手紙ひとつ書く労力といったら相当なものだ。余裕が無ければとてもできまい。
大概、先方は末尾に日づけを書き込んでくれている。確かに自分に「その時」があったことを、その人の手で書きこんでくれる。見れば2001年とか、2004年などと書いてある。ミレニアムなんてつい最近のことだと思っていたのに、なるほど、歳をとるわけだ。びっくりだい。
つい日々の喧騒にまぎれて簡単に生活してしまっているけれど、なるほど、たとえば「生きている証を時代に打ちつけろ」っていうのは、こういうことなんだなぁ、と想っていた。