池脇千鶴

映画『大阪物語』(1999年市川準監督)は、一風変わった幕開けを見せる。主人公がカメラに向かって自己紹介を始めるのだ。あれは川の土手だったか、草むらに座った少女が、そう、記憶が確かならこんなセリフだ。「私の名前は霜月若菜。冬の寒い日の、あの霜に、夜の月。若い菜っぱで霜月若菜」。
不思議な存在感だった。とんでもなくオーラを発揮するでもなく、かといってかすんでしまうのでもない。ただ、そこにいた。
少女を演じたのが、本作が映画デビュー作となる池脇千鶴。日本の半分を敵に回す覚悟で白状すると、はじめて上品な関西弁を聞いた、と思った。
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すっかりファンになった高校生の私は、次の『金髪の草原』(2000年犬童一心監督)の舞台挨拶を観にいっている。今の自分から考えると、驚異的な行動力である。場所は銀座テアトルシネマ。公開前日、並んで整理券をもらい、当日は2回目の回で見た。並んで待っている間で、「TUGUMI」が読み終わった。
物覚えの悪い私は、どんな挨拶がされたのか、おぼろげな記憶しか持ちあわせていない。ただ、役者さんたちの去り際、撮影していたカメラマンのうちの1人が彼女に歩み寄り、握手をしてもらっていたことを覚えている。
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高校時代の話をしようと思って記憶を紐解いてみたが、映画を観ていたこと以外、ろくなことを覚えていない。思い出すのは断片的な場面ばかりで、まとまったエピソードがない。たとえば、数学のY先生の、「そいつは穏やかじゃないな」という物言いがやけに面白かったとか、日本史の時間に隠れて「沈黙の艦隊」を読んでいたとか、いったい誰がカッカしていたのか10月に入ってまで冷房がついており寒くて往生したとか、向かいの通りの「ポポー」というサンドイッチ屋が「ぽぽいち」と呼ばれていたとか、そんなことくらいである。結局「ぽぽいち」を利用したことがあるのかさえ判然としない。
私の記憶がないくらいだから、周りからもろくに覚えられていなかった。恨んでいるわけでは全然なくて、あの生活なら当然だよなぁと思っている。
2年生になってだいぶ経ってから、担任は私の名前が出てこず、面と向かって「誰だっけ?」と聞いた。また3年生のときは、職員室で用をすませていたとき、隣にいた先生に「おい○○、大変だったな。大丈夫か。入院したんだってな」と話しかけられた。名前も内容も、かすりもしない人違いである。ちなみに、声をかけてきた先生は、古文の担当で、私が1年生の時の担任でもあった。未然型接続の助動詞が「むず・む・ず・じ・まし・まほし」であることは、彼の授業で覚えた。
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授業中に隣の奴と将棋をさしたりしていたから、多少は交流があったのだろう。しかし、純粋に高校のとき知り合って、今でも頻繁に連絡のやり取りがある友人は、一人もいない。むしろ学外の人間との付き合いが多かった。
作曲をしていた友人に頼まれて、作詞をしてみた。その人の曲にはいろいろな人が詞をつけていたが、当然ながら8、9割はラブソングである。残りの1、2割が、私によるものだった。ある時、「紙オムツを子にさせたら資源のムダだね それでも布オムツは水が汚れるじゃないの」と詞をつけたら、「イメージしてたのと違う」と言われた。当たり前だ。
また、演劇をしていた友人に頼まれて、台本を書いてみたこともあった。井上ひさしの「やあお元気ですか」を元ネタにしたものだ。題名は「YAH!」で、冒頭はたしかこんなである。「はじめまして。私は文藝新潮の記者、○○です。現在、女子大生の就職率は大変低く、男女雇用機会均等法ができた今も、依然として差別が存在します。そこで今日は、歴史的人物にお越し頂き、これからを生きぬくヒントを得たいと思います」。卑弥呼紫式部清少納言日野富子与謝野晶子、たしか北条政子も登場し、討論をするというムチャクチャな話だった。結局、採用されなかった。
「紙おむつ」の彼は、現在ドイツに留学中のピアニストである。「YAH!」の彼女には先日お会いし、自転車の二人乗りで地元を滑走した。
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酒もタバコもしなかった。文化祭にも参加せず、部活には1日だけ行ってやめた。バイトもせず、とくに旅行に行った覚えもない。高校の最寄り駅における活動圏は、マクドナルドから「うどん市」までだけだった。少年マンガ、少女マンガにでてくるような青春シーンとは、無縁の生活だった。意気地なしともいえるが、どちらかというとただの「ものぐさ」であった。巻き込まれなければ何もせず、すすんで人と関わろうとしない姿勢は、当時も今も変わらない。まったく、涙が出そうになる。
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さて、先日のことである。誰でも一人くらいは、「この人の薦める作品は観よう(読もう)」と決めている人がいると思う。ちょうどそんな間柄である、古くからの知人とお会いし、レンタルビデオ屋に入って、手当たり次第に「そう、これ観た観た。面白かった」と自分の“持ち映画”について紹介し合いながら、ふと、「当時は好きでした」という発言を繰り返している自分に気づいた。
その時、まるでサプライズパーティーの主役になったかのように、「そうだったのか!」と目の前が明るくなった。なるほど、自分にも青春があったのだ。分かりにくい形だが、確かに胸の奥に、もう使わなくなった宝箱のような空間がある。知識も経験もなくて、人間関係もずっと少なくて、つまりはずっとずっと小さな世界にいた私は、その分純粋で、物事を素直に享受し、いっぱいに空想を広げ、まったくもって見えない未来に押しつぶされそうになりながら、記録には残らない毎日を必死に生きていたのだろう。そしてそんな日々には、もう戻れないのだ。
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そのひとつの象徴が、池脇千鶴嬢だといえよう。落ち着いてみてみれば、失礼ながらそこまで美形ではないし、スタイルもよろしくない。たとえば携帯の待ち受け画面にしようなんていう気は起きない。でも、あの芯の強いまなざしを見るとき、コロコロと転がるように喋る大阪弁を聞くとき、まるで海を見ながら見えない向こう側を探しているような、特別な気持ちになるのである。
そうそう、この文章を書こうと思って下調べをして気づいたが、2006年11月21日は、彼女の25回目の誕生日である。