なっぱ

研究の合間に、わらわらと連れ立って、ドトールにいき、珈琲を飲みながら、なんともない会話をして居ると、どういう流れだったか、「ドラゴンボール」の話になって、「サイヤ人はヤサイ人」という話になって、「でもナッパっていうネーミングはどうなんだろうな。日本語じゃん」という話になって、私が、さくらももこのエッセイの中の、「イマワの際に『菜っ葉!』と叫んでコトきれて、残された家族を混乱のどつぼにおといしいれた」エピソードを紹介して、みんなで笑っていた。そっから先は、「面白い」イマワの際の一言をだしあっていた。「やっぱり、『実は…』だけじゃなくて、一字言ったほうがいいんじゃない?『実は、き…』とか。きってなんだよ!みたいな(笑)」。そしたら誰かが唐突に、「みんなもいつかは死ぬんだねぇ」と言った。
生きている意味とか楽しいことはおろか、生きている実感そのものを感じることも、なかなか難しい。往々にしてそれは、後ろ向きな実感でしか得られない。魚の目が地味に痛いだとか、突然胃がしくしく痛みだしてうめいてるだとか、朝までハチクロを読んでいて眠かっただとか、眠気に耐えながら数式とにらめっこしつつ朝まで資料を作るだとか、作り終わったら持病が生じてそのまま昼過ぎまで倒れていた今日だとか。どうすればいいのか分からなくなって、楽しいことを思い出してみることにして、そうしたら本当に楽しかったのかも分からなくなるだとか。所詮私は、何を以てしても…(というのは語弊があるな。ひとまず、お金とか、物では)決して満足できないのだと再確認してしまうだとか。
そうそう、先日、お世話になった人を連れて、みずたにサン(お鮨屋サン)のところに行った。私が多忙だったこともあり、久しぶりで、なんと今年初めて行ったにもかかわらず、みずたにサンは私をきちんと覚えていてくれていた。相変わらず美しい握りや、生いくらや、ちょっと強めの塩味や、金持ち風を吹かせる人の少ない店の雰囲気が、なんだかとっても嬉しかったのだ。そうそう、やっぱりこれだよなぁ、と思った。自分のために、この空間と、(そんなに多くないけど)食べてきた歴史を、大事にしようと思った。
ひとまず今日は、あんまりなんにもしないで休んでいようと思う。