活字の海におぼれて

東映は、50年代は時代劇映画を量産し、片岡千恵蔵市川右太衛門中村錦之助大川橋蔵などなどのスターを輩出したが、60年代にはいると人気が衰え、仁侠映画に移行する。この時のスターが、鶴田浩二高倉健である。仁侠映画というのは、たとえば、果し合いに出かけようとする男、見送る女、しかもおなかの中には子供、男「その子が男だったら、俺みたいな子にするんじゃねえぞ」、女「もし女の子だったら、あんたみたいな男に惚れるように言うわ」、男、ふっと笑って去る…みたいな映画である。70年代に入るとその人気も衰え始め、実録ヤクザ路線に転向する。代表作はすなわち73年にはじまる「仁義なき戦い」である。ちなみに高倉健は75年に東映を退社、他社の映画に出演するようになった。もうひとつ、今挙げた映画の殆どを私は観ていない。
さて、今挙げた鶴田浩二は「傷だらけの人生」という歌を出しており、歌に入る前にセリフが入る。「古い奴だとお思いでしょうが、古い奴こそ新しいものを欲しがるもんでございます。どこに新しいものがございましょう。生れた土地は荒れ放題、今の世の中、右も左も真っ暗闇じゃござんせんか。」
というわけで、今の私は右も左も活字だらけなのである。

いちばん大事なこと ―養老教授の環境論 (集英社新書)

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養老さんは結局「形を読む」と「唯脳論」なんだと思う。唯脳論は読んでないけど。
邪馬台国はどこですか? (創元推理文庫)

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岩手だそうです。
「聖徳太子」の誕生 (歴史文化ライブラリー)

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要するに「聖徳太子はいなかった」
古風堂々数学者

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昔、「歳をとると誰でも偏屈で頑固になるの。今からそんなに偏屈で頑固でどうするの!」と怒られたことを思い出した。「何かを得たときの喜びと、何かを失った時の悲しみは、まったく質が異なると思う。前者が比較的に短期間で断続的なものであるのに、後者は長期間で連続的なもののように見える。得たものはいつも身の回りにあるせいか、時日をおかず現実の一部となるのに、失ったものは二度と取り返しがつかないから、その空洞がいつまでも胸に迫るのだろう。」という部分には、共感。
ことばと文化 (岩波新書)

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結局門外漢なので、言語学国語学と呼ばれる類の分野の最新事情はまるで知らない。読んだことがある人を思い出してみれば、大野晋小松英雄築島裕、馬渕和夫、そして鈴木孝夫と、いずれもおじいさんばかりである。で、この「ことばと文化」、さすが何十年も読み継がれているのも納得の良書。内容によっては古くなっているのかもしれないけど、根本的な考え方の方向なんかは今でも揺らいで無いのではないかと予想する。ついでに、文章が非常に平易で読みやすい。「やさしく書くということは、ただ平易に噛みくだくということではなく、読む人の心の動きを絶えず念頭に置くことなのだということに、おそまきながら私は気づいた」。斜め読み。