じこしょうかい

いくら殆ど何も考えずに面接に望むことが多かったとはいえ、その場では考えるし、繰り返せばそれなりに自分のことも見えてくるもんである。就活も、たけなわなんだか序盤か終盤か知らないが、折角なんでまとめておこう。今までどこかで書いた内容とかぶるだろうが、順不同、根本も現象も織り交ぜて。

  • 結局、新しく内容のある発見や価値観に触れた時に、たまらなく興奮する人間である。
  • しかもそのポイントは、えてして独特である。先日『街の灯』について「いいよねー」と話し合っていた時に、「あれをみて、あぁ、セリフの言い方や内容よりも、どういう間を置いてそれを言うのか、役と観客の思考スピードにあっているかがポイントなのか気づいたんだよね」と言ったら、「そこかよ!あれ観てそんなこと考えるのかよ!」とツッコまれた。そういや、「また他の人とはずれた視点で勝手に楽しんでいるのではないかと思います」という旨のコメントをいただいたこともある。大抵気味悪がられる。
  • 裏返せば、たとえば全員一致が気持ち悪い。みんなが「そーだよねー」といっていると、居心地が悪くなって「そうかぁ?こうも考えられるぞ」と口ィだしては煙たがれれてきた。
  • 強みと弱みを聞かれて、その場の思いつきで、「強みは、問いを問い直すことですかね。よく前提や問いそのものを疑ってみます。話し合っていても、話が行き詰まると前提の方をひっくり返します。でも、そういうところからきちんと考えていかないと、まともな考えは出てこないと思うのですよ。弱みとしては、そういうことしてると話が長くなるのと、話し相手から嫌がられます」。付け加えるならば、自分が何かをしていても、たえずそもそもそれが正しいのか意味があるのかをいちいち考え直してしまうので、疑心暗鬼に陥りイヤになって布団かぶって寝ることになる。
  • 頑張っている奴が嫌いである。正確に言うと、自分が今がんばっているのだと言う自意識がある奴が大嫌いである。分かりやすくいえば、「がんばってる自分が大好き」という奴が我慢できない。頑張るのはあくまでも手段であって目的ではない。当然ながら、一見よさげな結論をもってきて「そーだよねー」と喜んでいる集団には断固反対である。
  • だから、大抵の場合いわゆる「サークル」を、私は認めない。本人達はいいだろう。だが、ろくでもないパフォーマンスに付き合わされるまわりの人間をどうしてくれるんだ。この手の発言を繰り返しては、当然の如く孤立していく。
  • 発言が、シニカルである。往々にして否定する。「悪口は言っちゃいけない」とか「誰にだって生きている意味はあるんだ」の類の発言を鼻で笑う。口先の甘い言葉で満足する限り、一歩も先には進めない。この際補足しておくが、否定的発言が、そのまま否定につながるわけではない。私の思いもよらない考え方や必要のされ方があるであろうこと自体は、きちんと理解している。でもそれはそれである。考えられないものを考えて、手ぬるい判断はできない。今現在考えられる限りの責任において、「だったらやめちまぇ」とか「そんなものに無意味も無い」と暴言を吐く。
  • ついでに言えば、これだけ考え及び言行動が一致していない人間も珍しい。Aを言いたいがためにA´やBをいう。当然の帰結として理解されず嫌われる。
  • 言い方をかえれば、意地っ張りにして見栄っ張りである。異常なまでの照れ屋である。なんぼ外から言われても直らんし、あんまり人に頼ろうとしないで格好をつける。ここではよく弱音を吐いているが、本当は、「んなもん片足でちょちょいのちょいだい」と言ってたいのである。面と向かってほめるのも恥ずかしいから、斜に構えて発言すると大抵イヤミととられる。学ばない奴である。
  • 誤解されがちだが、一連の発言は、自分に言ってるのだ。返す刀は自分に向く。自分を追い込んでいるのである。白状するなら、多くの場合人は人私は私で区別できる性分で、しかし時々他人にこう動いてほしいとお願いすることがあるのだが、十中八九拒絶されるので、要するに自分がどう生きるかという問題である。分かりやすく言うと陳腐になるが、何が本質で何が新しくて意味があるのか、何が目的意図でどんな方法がいいのか、絶えず見誤らないようにしようということである。
  • ひとつ考えられるのは、自分に何も芸のない事が大きい。歌も歌えんし外国語が喋れるわけでも無し、体力も無し、運動もムリ、顔も性格も声も悪い、記憶力なし、実は論理力も思考力もなし。分かりやすい技など一つもない。そんな中どう生きのびるのかという選択の蓄積が、この曲がりくねったクソ野郎である。よくいえばプロフェッショナル意識であり(実際言われたこと有り。)、普通にいえばひがみ根性である。
  • 仕方がないので自分で自分の存在くらいは「まいっか」と認めてやることにしているが、なかなか人からは理解されないような気がする。まぁ、元々自分のことをきちんと分かってもらうことにあまり興味がないようにも思える。単に能力がないだけな気もする。分かると離れていくという向きもある。
  • 自分で何とかすることと、自然に何とかなることを、それぞれ努力や運命と呼ぶのならば、私は運命に任せている部分が人より多いと思う。目標を定めて、何が何でもそこに向かおうと言う姿勢は、できないしやりたくない。早い話、1から10まで自分で決められるとしても、それは10にしかならない。8くらいでとめとけばいいのだ。残り2にふってくるものが、5や10かもしれない。そのチャンスを逃さず自分のものにできるのかと言う眼力と実力があればいいだけの話。その意味で、まるっきり制約のない決断は苦手なのかもしれない。夢もないしゴールもない。いつもスタートラインである。自分のおかれた状況を理解し、そこに自分の意図と願望をかんがみた時に、どっちをむくか、絶えず出発点を確認し続けるだけである。