脈絡のないあれこれ3 〜ことばと感情、意味と価値、および本質、そして忘れる&手紙。

どうも機嫌がよろしくない。私は元々、すべてが楽しくってしょうがない時期と何もかもが色あせてつまらなく見える時期が定期的に交互に来るのだが、現在は後者が到来中で、嫌気がさしてしょうがない。
「貴重なお話ありがとうございました」「御社を志望する理由は…」「わが社は人材に最も力を入れ…」「日本を変える」「成長」、もしくは「君は君らしく」やら「雨上がり空を見上げて心が晴れて」といった類の、もしくは「売れる」「痩せる」「カッコイイ」「ヤバイ」といった手垢のついた中身のないことば達にうんざりしている。
ディスカッションの時に気が行くのはそこで、やれ「相手の立場で考えるのが大事だよね」とか、「世界を変える」だとか、他の人が満足そうにうなずいている中でひとりで憮然としている。それじゃ何の説明にもなってないではないか、裏づけのないことば遊びゲームだ!…自分ばかりは違うぞっと思って、自分なりに本質ってなんだろうなぁ…と考えてみるのだが、どうやらまるで評価されていないから、しょせん自分の勘違いで自己満足なのかもしれない。だとすれば、これから長文になるであろう本項も、自分自身の指摘するまさにそのとおり、ただの茶番ということになる。
耳障り*1がいいだけで意味のない言葉を、嫌悪する。具体的に言うならば、ありふれた青くさい歌詞であり、その専門以外における専門用語の羅列であり、横文字の羅列であり、そのことばを使っただけでイメージが固定してしまうことばであり、他人の思考そのままの文であり、ある面では広告文句であり、はやい話自分では何も考えていない発言や感情のこもっていない発言、もっと早く言えば浅いことばである。正確に言うと、事実を見ずにことばのほうだけをいじくって喜んでいる発言である。昨今のグルメブームの大半は、それであると睨んでいる。どうぞお好きに、雰囲気に酔うがいい。土から一歩もぬけだしていない焼き物に、2人が叫ぶだけの漫才に、存在価値がないように、意味のないことばを喋る人間に、存在価値など、ない、のかも、しれない。勿論、意味のないということ自体に意味があることもある。たとえばことばあそびうたであり、お天気の挨拶であり、一青窈の歌詞であり、なんてこたァない、いわゆるお役人コトバがそれである。要は本質はどこかという問題だ。ちなみに、価値ということばは嫌いである。よく使ってしまうのだが。
批判だけなら簡単だ。生みの苦しみは、苦しい。分かっている、実践中だ。所詮自己満足なのだろうが、よくやっているほうだと思っている。そう思わないと続けていけないことも、分かっている。
ホリエモンという人の、ドキュメンタリーを観た。かつてなら「キライ」で済ませていたのだが、こうまで手のひら返したようにバッシングを受けていると、もうちょっとちゃんと観なくてはダメだなと感じて。事実自体は、ある程度理解した。彼の言っている発言も、どこまで本心なのかは知らないが、ある程度理解した。とはいえ、肝心のところは、まったく理解できない。何が彼を動かしているのか。ついでに言えば、彼を信奉する人の思考も、私にはまったく理解できない。
そもそも世の中には、なんぼ考えても理解できない、納得できないことがある、ということ自体は、理解しているし納得している。いや、させられている。
年末の某ドラマ。新聞記者の主人公は、言う。

こわいかい、それでいいんだ。そのこわさから目をはなさずにいればいい。(中略)だったらまた書け、書けばいい。ことばはそこにいつづける。感情とは違う生き物だ。自分で背負ってくしかないんだよ。誰だってこわい。僕だって同じだ。だから、また書く。

ありったけの感情を、ことばにこめる。が、ことばとして発せられた瞬間に、それは別の生き物となる。時間がたてば、まったく別の、そのときの感情が想起される。相手には、特に他に情報が無くことばだけを受け取った相手には、まったく別の意味と感情を想起させるだろう。相手に時間が経てば、おそらく、それはもう現物とは似ても似つかないものとなってしまう。もしかしたら、何の感情も想起されない、力のないことばと成り果てるかもしれない。そもそも、ことばは相手に届いていないかもしれない。
一方で、ことばは発した瞬間に、否応無しに力を持つ。そのことばの文脈を、ひっさげてやってくる。体系を押し付け、思考を限定し、また、過去を、未来をしばりつける。ソシュールフーコーもよく知らないが、おそらくそういうことだろう。しかし、どうとでも変えられるものなのだ。過去のことばに必ずしもしばられる必要はない。自分の気持ちに正直であることが一番であると思う。決定事項は、次の瞬間にはいつも未定なのだ。解決は、くぎりでしかない。ならば、気が変わることがあっていい。されば、「気が変わってしまう」という方向のとらえ方の発生も、避けられない。
忘れることで、解決している。いちいち受け止めていたら、受け止めきれない。寅さんが見せるような哀愁を、たのしむ。即物的に言うならば、何社受けて何社残っているのか、そこで何をしてきたのか、よく覚えていない。返事しかない問いである以上、受け止め方には限界がある。忘れてしまうのも一興だ。
しかし、いくら忘れっぽい私でも、忘れようとすればするほど、意識してしまい、一層くっきりとした輪郭を表すものもある。泪を流し、おろおろ歩き、でくのぼーとよばれる。無理矢理忘れようとするのは、あまりにさびしく、不誠実である。

メタファーは、きらいだ。
なんてこたぁない。張本人が、ことばいじりになっている。返す刀は自分に襲い掛かる。とんだ茶番である。他人の思考を借り、他人のことばを使った、自分でも何がなんだか分かっていない、ただの、ふわふわ。仕方がない。ならば、このまま人様のものを借りて、ミイラになった駄文と自己満足に終止符を打とう。他人を前にして、とんだひとりずもうだと悪態をつきながら、整理をつけさせてもらおう。ひとつひとつの感情に、想い出に、思考に、今までかかわりをもった人に、明日会うかもしれない誰かに、一声かけて。
「お元気ですか?私は元気です。」と。

*1:今気づいたけど、これ誤用だ。4/11