返事しかない問い、返事さえない問い

何を想像されてもいいのですが、イエスとかノーだけでしかリアクションを得られない問いってありますよね。いきなり話はずれますが、むかし成瀬巳喜男という映画監督がいて、この人は撮ってても「もう1回」としか言わない。どこが悪いか言わない。だから役者は役者で考えて直して演じるしかない。…とは言えこの例は撮りなおしがきく話であって、世の中大抵はノーと言われたらそれっきり、理由を聞くこともやり直す機会もないことが多いわけで。ついでに話をずらして説明を続けてしまうと、私はむかしから脳内で会話する子だった。たとえばいつぞやは、森首相(当時)に文句を言ってやろうと思って、会ったら何て言おうか一晩真剣に考えていた。アホですね。とうぜん問いだけが宙に浮く。
要するに、誰かれかまわず殴りつけたいような、それでいて誰とでもいいから話したいような、いつのまにか他人の土俵に上がらされているような、おまけに一方的に退場させられるような、仕方がないのでとりあえず鼻歌でも歌ってみて、そうだ自分は音痴だったと気づいたり、なんでもコーイと思ってみたり、もう頼むから勘弁してくれと思ってみたり、最高が最低だったり、再考は最低だったり、そういう気分だということです。
分かるぅ?分からないよね。自分でも何を言っているのかヨクワカラナイ。分からないから仕方ない、問いかける。返事のないことは分かっているから、空に向かって問う。「おい、どーなんだよ、これでいいのか」とつっかかってみたり、「だってこうするよりしょーがないじゃないですか」と弱気に逆ギレして上目遣いになってみたり、考えるのに降参して「これでいいのだ」と自分を納得させてみたり。そもそも「これ」がはっきりしているならまだいいわけで、何がなんだかと途方にくれながらあちこちひっくり返して探してみたり、もしくは臭いものにふたして身近な話でお茶を濁す。流石にこの歳になれば、というかこの歳になってようやくというか、世の中一問一答ではないことや、理不尽にできていることや、理不尽は誰かにとってはまっとうであることや、一晩寝れば大抵「ま、しょーがないか」と思うことを知っているし知らされている。
結論としては絶対間違っているのだが、それでも結局、のんきに暮らしているしかないのである。
で、うーん、まぁまぁかな。