店じまいとものさしと不安

とりあえず、年賀状をやらなきゃと思って、突貫工事で図案は作成。さて、誰に出すかという問題で、手がかりに必死でダンボールを引っ掻き回して昨年のを探すも、なぜか昨年のだけ見つからナイ。どこだー。と言うわけで、とっとと諦め、きたのに返信することにしようか…。どうせ殆ど来ないから(ヲイ)。
それにしても、年の瀬はやはり気が急くものですネ。前に書いたのかどうだか、世の中「解決」も「安定」もかりそめの姿で、その証拠に連休中列島各地における中身のない大騒ぎなのだろうが、たまには無理矢理「区切り」なり「気分転換」を作るのも、それはそれで必要だろう。ご承知のとおり私は偏屈なへそ曲がりだから、くりすますだろうが自分のばーすでぃだろうが大して感慨などないのだが、やはり、年末年始には「区切り」を感じ、しみじみと一年でも振り返ろうかという気持ちになる。
のですが、ちょっと忙しい。気ばっかりあせって、なかなか頭がまとまらない。荷物もまとまらない。部屋は片付かない。レポートは白紙。積読の本は沢山。
1つだけ、今、手がかりのように感じているのは、「ものさし」の問題。大好きなツッコミに「自分のものさしで測るなよ」(byやはぎ)というのがあるのだが、結局自分のものさし、価値観でみんな生きているのですよね。で、私のものさしは、人と比べて相当変わっていることに、改めて直面し続けた1年だった。他人にとって、一見面白く、実は始末に悪い迷惑な話だろう。自分にとっては、いつも独り相撲な気がして、寂しく感じたり、人に迷惑をかけてすまないと思ったり、モチベーションの維持が難しかったりする。でも、そのものさしを変えることはしたくないし、また、否定しようにも染み付いたものはそうやすやすとは抜けてくれない。もっと言えば、ものさし無しでは世界は無意味だし、自分が生きている筋合いがない。
より一層厄介なことに、インプットとアウトプットの段階でバイアスがかかってしまう。すなわち、知覚したものをものさしで測るのではなくて、ものさしにあわせて知覚してしまう。すなわち、人に伝えるために言語化した時点で自分の中のそれと乖離し、人に受け取られる時点でまた乖離が生じる。ついでに言えば私は素直じゃないから、言動は皮肉・逆説・言葉足らず・無責任な思いつきの権化である。
…おだかずまさを聴きながら考えていたのはこういうことで、つまり…あぁ、めんどくさい。まとまらねぇ。疲れた、体力切れだぃ。要は、柄にも無く不安になったり物を考えなくてはならない状況だということです。考えても仕方が無いことばかりで、でも、考えること自体に意味があることもあるということです。でも、考えることをやめて、まっさらに「見る」方がよかったりするからヨクワカラナイのです。近いところで、どうしようかと某F氏に相談したら、「とりあえず砂糖だろう」ということで、コンペイトウを用意したという真面目な話です。要は自分のものさしだけではどうにもならないことがあるということです。生きてくって、当たり前のことを、当たり前だなぁと再認識する旅なのかもしれないと思ったりもします。要は、ぐだぐだ言ってもいつも結局「あとは成りゆき!」といってほっぽりだせるのが長所であり短所なのです。要は、要は…

A very merry Christmas
And a happy New Year
Let's hope it's a good one
Without any fear