これでいいのだ。つづき。

昨日の「これでいいのだ。」の中で、これはっ!というものをメモ。
タモリ「テレビっていうのは状況ですからね。状況を流すということに一番威力を発揮するメディアだから、作られたものにはちょっと向いてないかもしれない。完全に作り込まれたものは特に」。赤塚、タモリ山下洋輔筒井康隆あたりが集まって破天荒をしていたくだりは、原文で読んでください。抱腹絶倒。
談志「(若手落語家で下手な奴を、)演出側もその判断ができない。それらの技術や内容をチェックするなり、若い噺家どもを刺激した観客や落語に対して一つの基準を持ち、それを指示した識者みたいな連中が寄席にさじを投げて背を向けてしまった時に、寄席自体の笑いも拍車ぁかけるが如くに低下してきた。本来の笑いとは違うけど……とりあえず現状の悲惨さの分解をすると、こうなる……」全然分からない。「笑いとは“弛緩”なんだと、家元決めた。人間っていうのは、緊張して生きてますから。緊張してないと、もたないんですな。ということは、動物と違って不完全ですから、常に生きていくために緊張している。“繕っている”。(中略)で、その緊張の緩んだ時に出る音“緩んでるんだ”ということを表現するために笑い声というものがある、と。(中略)そういう訳でネ、弛緩したいんなら、俺で弛緩しようが、こん平で弛緩しようがいいじゃないかって意見になってくる。なんで自分達の方が良い笑いで、向こうの笑いがセコだと決めるんだっていう問題」。
武「映画ってのはもちろん三次元になるんだけど、そうじゃなくてスライドを十枚見せて客が泣き出したらすごい映画だって言ってるんですよ。だから、それじゃあ足りないから、その映像が動き出して、音楽を入れて、台詞をしゃべってって言う風にどんどんフォローしていくだけなんですよ。基本的にはフィルムを一枚抜いてその一枚だけで立派な写真にならなければいけない」。
松本「意外と落語には影響を受けてるんですよね。だからコント作っててもオチがないと、っていうか、なんですかね、構成がしっかりできていないと納得できないんですよね。何でコイツはココでコウなんねん、というのが理解できないと、いくら面白くてもなんか納得できないんですよ。(中略)(今は、)不条理、不条理ってよく言いますけど、いくら言ってることが不条理でもストーリーまでもがあまりにも無茶やと、僕はついていかれへんかなぁ」。個人的には、彼が落語聴いてた&お酒ダメ&「(テレビ)見ないですよ。見てもほとんどNHKばっかりですね」がウケた。
赤塚自身も負けてはいない。「不思議なのは、何を描いたって文句ってのが一度もきたことがないんだよね」。「違う。笑いもん、なんてことはしちゃだめなんだよ、誰のことも。その作品が全体で笑えて面白いってことだけなんだよ。要するに、ナンセンスな世界だけで成り立っていることなの。ギャグって言う愛情」。「テレビ観たってね、お笑い連中なんてみんな似たり寄ったりでしょ、あれってのはお笑いからお笑いを学んでるからそうなるんですよ。僕らは手塚治虫に“(中略)一流の映画を観ろ、一流の音楽を聞け、一流の本を読め、それで自分の世界を作っていけ、そうして描け”って言われたね。だから個性があるんですよ」